茶の湯的 ・ 建築 庭園 町並み観賞録

 
 
 
 

浄瑠璃寺庭園 ~京都府京都市~

浄瑠璃寺は、京都府南端・木津川市にある、真言律宗の寺院です。境内には、平安時代に造営された本堂、三重塔、池泉廻遊式庭園が現存します。

浄瑠璃寺庭園・本堂と中島



庭園は久安6年(1150)、関白藤原忠通の子で興福寺の僧だった恵信(えしん)により作庭されました。昭和48年(1973)から同50年にかけて、庭園研究家・森蘊の指導の下、発掘・復元されています。




東岸から望む庭園と本堂。庭園は池泉東岸に薬師如来像を安置する三重塔を、西岸に阿弥陀仏像を安置する本堂を配置しています。現世(此岸)で薬師如来が衆生の苦しみを除き、善行を重ねれば阿弥陀仏のいる西方極楽浄土(彼岸)へ導かれる、という浄土教の理念を表した「浄土庭園」となっています。




池泉の汀は洲浜の意匠で、玉石が敷かれています。宇治平等院庭園や毛越寺庭園など浄土庭園に共通して見られる特徴で、日本最古の庭園書『作庭記』に基づく作庭手法です。

浄瑠璃寺庭園・洲浜




池泉中央にある中島。東西に細長い地割で、中央には弁天社が祀られています。

浄瑠璃寺庭園・中島



発掘調査により、中島は池底に溜まった泥土をその都度盛ったため、時代とともに大きくなっていったことが判明しています。南部(写真左奥)には切石橋が架けられていますが、明らかに江戸時代以降のもので、あまり美しいものとは言えません。

浄瑠璃寺庭園・中島




中島北部先端の石組。鋭い立石を中心とした構成で、『作庭記』にもある「荒磯(ありそ)」の表現となっています。

浄瑠璃寺庭園・中島の石組




池泉東部の出島。こちらも緩やかな洲浜の意匠となっています。

浄瑠璃寺庭園・東部出島



本堂は保元2年(1157)に建てられたもので、国宝に指定されています。内部には平安時代に作られ、やはり国宝指定されている9体の阿弥陀仏像が安置されています(本堂内部は撮影禁止)。

浄瑠璃寺・本堂




本堂手前にも出島が配置され、池汀に変化をつけています。

浄瑠璃寺庭園・洲浜



池泉西岸に建つ三重塔(国宝)。治承2年(1178)、一条大宮から移築したものとされ、内部には平安時代作の薬師如来像(重要文化財)が安置されています。

浄瑠璃寺・三重塔



庭園には、2基の石燈籠が池泉東岸と西岸に建っています。近世以降に持ち込まれたものと思われますが、いずれも南北朝時代の作品とされ、重要文化財に指定されています。

浄瑠璃寺庭園・石燈籠



三重塔の南方、山畔付近には三尊石組があります。『作庭記』では池庭から離れた位置に築かれた石組を「枯山水」と呼びますが、この石組はまさにそれに当たります。

浄瑠璃寺庭園・三尊石組



庭園北部、鐘楼の周囲には、巨石を用いた集団石組が見られます。こちらも『作庭記』で言うところの「枯山水」石組で、先ほどの三尊石組とともに、鎌倉時代のものとする説もあるようです。

浄瑠璃寺庭園・集団石組



浄瑠璃寺は永承2年(1047)、義明上人により開創された「西小田原寺」を起源とします。当初は興福寺一乗院の末寺でしたが、明治期に奈良・西大寺の末寺となったようです。庭園は鎌倉時代に改修されているものの、幽邃な山里に平安時代の浄土庭園と伽藍・仏像が一体となって現存する様は、この世の浄土とでも言うべき美しい光景でした。

浄瑠璃寺庭園・本堂と池泉


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龍源院庭園 ~京都府京都市~

龍源院(りょうげんいん)は臨済宗大徳寺の塔頭寺院であり、大徳寺南派の本院です。方丈北庭に、室町時代作庭と推定される枯山水庭園「龍吟庭」が残されています。





東部よりから見た全景。庭園は平庭式の枯山水で、東西に長い長方形の空間に、塀際に平行して石組を配置しています。

龍源院庭園・全景




西部から見た全景。全庭に敷かれた杉苔は大海を、石組はそこに浮かぶ岩島の表現であるとも言われます。

龍源院庭園・全景




庭園の主景となる枯滝石組。三尊手法の抽象的な枯滝で、主石を強く傾斜させた、古風で鋭い手法です。

龍源院庭園・枯滝石組  



枯滝石組は、須弥山(しゅみせん)石を兼ねるとも言われ、手前には水分石も意匠されています。石組を覆うような刈込は後世に加えられたもので、このような抽象的な石組にはそぐわないものです。

龍源院庭園・枯滝石組




枯滝右前方、3石からなる石組。

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枯滝を含む、庭園東部の石組群。

龍源院庭園・東部石組




庭園西部の石組群。

龍源院庭園・西部石組 




庭園西端の石組。木の陰で見えづらいですが、こちらも中尊石を強く傾斜させた三尊石組になっています。

龍源院庭園・西部石組



南部から見た庭園と方丈(重要文化財)。方丈は永正年間(1504~1521)の建立とされ、庭園も同時期に、当院開山の東渓宗牧(とうけいそうぼく)により作庭されたものと推定されています。

龍源院・方丈と庭園



方丈と庫裡の間には、「東滴壺(とうてきこ)」と呼ばれる坪庭が築かれています。昭和33年(1958)、重森三玲の『日本庭園史図鑑』掲載の実測図を製作した鍋島岳生により作庭されたもので、「現代を代表する坪庭」と評価されています。

龍源院・東滴壺




方丈南庭「一枝坦(いっしだん)」。もとは樹齢700年の山茶花「楊貴妃」1本のみが植えられた簡素な庭でしたが、昭和55年(1980)に枯れたため、モダンな枯山水庭園が作庭されました。

龍源院・一枝坦




一枝坦の東部にある亀島。円形の苔地に2石のみを配した抽象表現です。

龍源院・一枝坦の亀島




一枝坦の西部にある鶴島。こちらは鋭い立石が用いられています。

龍源院・一枝坦の鶴島




一枝坦の蓬莱石組。2石のバランスが見事ですが、鋭さに欠ける印象です。

龍源院・一枝坦の蓬莱石組



龍源院は文亀2年(1502)、東渓宗牧を開山として、畠山義元、大友義長、大内義興らの守護大名により創建されました。方丈北庭はなかなかの渋さで通好みな庭かもしれませんが、枯滝石組の圧倒的な存在感に、室町時代の作庭における美的感覚の鋭さを感じずにはいられません。

龍源院・庫裡


 
 
 
 

興臨院庭園 ~京都府京都市~

興臨院(こうりんいん)は、京都を代表する寺院・大徳寺の塔頭の一つです。境内には、足立美術館の作庭で知られる作庭家・中根金作が手掛けた枯山水庭園があります(通常非公開)。

興臨院庭園・全景





庭園は、重要文化財である方丈の南庭に作庭されています。方丈前面を広く白砂敷として大海を表現し、方丈から向かって右奥(南西隅)に築山を設け石組を意匠しています。

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庭園の主景となる築山部分。暗くてよく見えませんが築山頂部には立石による遠山石を、中央は立石2石により渓谷風の景観とし、それらの間に蓬莱石らしき山形の石を立てています。

興臨院庭園・全景




築山頂部の遠山石。左手が蓬莱石でしょうか。

興臨院庭園・遠山石




深山幽谷を思わせる、中心部の石組。中央の切石橋は、中国の天台山国清寺の石橋を模したものとされますが、中国の山岳などで見られる天生橋のようにも見えます。

興臨院庭園・石組




築山下部は入江のような地割となり、水分石や岩島も意匠されています。

興臨院庭園・入江の意匠




庭園西部の石組と岩島。岩島は舟石のようにも見えます。

興臨院庭園・石組




境内にある茶室・涵虚亭(かんきょてい)。方丈庭園とは無関係ですが、4畳台目の茶室で、昭和初期に建てられたものです。

興臨院・涵虚亭



興臨院は大永年間(1521~1528)、名君と称された能登守護・畠山義総により創建されました。義総の法名をとって興臨院と名付けられ、畠山家の菩提寺となりますが、天正14年(1586)に前田利家により再興され、以降は前田家の菩提寺にもなりました。

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庭園は昭和53年(1978)、中根金作が資料に基づいて復元したとされますが、どのような資料に基づきいつ頃の時代を想定して復元したのかは不明です。中根金作は作庭において石組に重きを置いていない印象がありますが、興臨院では水墨山水画のような石組本位の庭を見ることができます。

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曼殊院庭園 ~京都府京都市~

京都市左京区、修学院離宮の南方にある曼殊院(まんしゅいん)は、「天台五門跡」に数えられる天台宗の門跡寺院です。書院と小書院の南部に、江戸初期作庭の蓬莱式枯山水庭園が展開します。

曼殊院庭園・築山と出島の石組



庭園は準平庭式枯山水庭園で、白砂で大海と流れを表現し、西部(写真右手)に鶴島、東部(写真左手)に亀島を配置しています。

曼殊院庭園・全景




庭園西部の鶴島。ゴヨウマツの古木とわずかな石組が見られるだけで、鶴らしき意匠は見られません。

曼殊院庭園・鶴島




鶴島の石組。後世のものでしょうが、「曼殊院型燈籠」と呼ばれる、織部式のような石燈籠も見られます。

曼殊院庭園・鶴島石組



鶴島の南東部には石橋が架けられています。方丈からでは遠くて見えづらいですが、青石の自然石を用いた力強い手法です。

曼殊院庭園・石橋




鶴島奥の築山には、高さ1メートル以上ある、鋭い立石が意匠されています。





小書院の前にあるのが亀島です。

曼殊院庭園・亀島




亀島の石組。こちらも亀島らしい意匠は失われています。

曼殊院庭園・亀島石組



庭園南東部の意匠。左手には築山、その右手から手前にかけて白砂敷の枯流れが意匠され、流れの奥には石橋が架けられています。

曼殊院庭園・築山、石橋と枯流れ




石橋と橋添石。武家庭園のような力強い手法で、この庭で最も見応えのある石組です。

曼殊院庭園・石橋と橋添石





築山の石組。頂部の立石は蓬莱石のようで、下部の枯流れには水分石も意匠されています。

曼殊院庭園・築山石組




石橋の手前には出島が設けられ、まとまった石組が見られます。

曼殊院庭園・石橋と出島




小書院東部には露地風の庭があります。手法的に、江戸中期~末期のものでしょうか。

曼殊院庭園・八窓軒前の露地



曼殊院は、もともとは比叡山の山内に、最澄により創建されたと伝わります。明暦2年(1656)、皇子良尚法により現在地に移転され、庭園もこの頃作庭されたものと推定されています。

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曼殊院庭園は、禅院枯山水のような厳しさがなく、全体的におおらかで優美な印象で、公家ならではの趣味が反映された庭と評価されています。なお、この庭も小堀遠州作庭の伝承がありますが、曼殊院が当地に移された頃、遠州は既に没しているため、庭園の作者は不明です。

曼殊院庭園・全景


 
 
 
 

正伝寺庭園 ~京都府京都市~

正伝寺(しょうでんじ)は、京都市北区西賀茂にある、臨済宗南禅寺派の寺院です。方丈東部に、江戸初期作庭と推定される枯山水庭園が残されています。

正伝寺庭園・全景      



庭園は方丈東部、塀で囲まれた長方形の空間に、大刈込を七五三の形式で配置しています。意匠構成を後方にまとめて前方を白砂敷とするのは江戸初期禅院方丈庭園の典型様式ですが、この庭では石組や築山を用いず、刈込のみの意匠としている点が最大の特徴です。




刈込は右手(南部)から七五三の配置になっています。龍安寺庭園など、石組を七五三配置とする庭園は多く見られますが、刈込の七五三配置は他に例を見ないものです。





向かって右側の刈込。よく見ると7群の刈込で構成されていることが分かります。





中央の刈込。こちらは5群の刈込で構成されます。




最も左手、3群の刈込。刈込はどれも大和絵的なおおらかさがあり、龍安寺などで見られるような禅院枯山水の厳しさとは対照的な印象です。





庭園右端には切妻屋根の門が建っています。伏見城から移築されたもので、桃山建築の様式を今に伝えます。





門から方丈へと続く延段。大振りの自然石を用いて霰敷とした、力強い手法です。




この庭のもう一つの特徴が、比叡山を借景に取り込んでいる点です。白砂、刈込、塀、借景の見事なバランスが、この庭の最大の魅力でしょう。




正伝寺は鎌倉時代、兀庵普寧(ごったんふねい)禅師が今出川の地に創建し、その後、東巌恵安により開基、東巌没後に現在地へ移されました。現在の方丈は承応元年(1652)、金地院にあった旧伏見城御殿を移築したもので、庭園もこの頃の作庭と推定されています。




この庭も小堀遠州が作庭したという伝承がありますが、方丈が再建された承応元年の時点で遠州は既に死没しているので、一般にこの説は否定されています。大刈込を用いた庭園としては詩仙堂庭園や慈光院庭園、大池寺庭園などが知られていますが、刈込を石組に見立てて七五三配置とした例は、ここ正伝寺だけです。なお庭園は長い間荒廃していましたが、昭和9年(1934)、重森三玲を中心とする京都林泉協会の有志によって復元されています。

正伝寺・庭園と比叡山

 
 
 
 
プロフィール

Hakka

Author:Hakka
関東近郊を中心に、古い町並みや建築(近代建築中心です)、日本庭園を訪ねています。どうぞよろしくお願いします。
※建築は基本的に内部公開されているものを取り上げています。
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