茶の湯的 ・ 建築 庭園 町並み観賞録

 
 
 
 

圓満院庭園 ~滋賀県大津市~

大津市園城寺内にある門跡寺院・圓満院には、江戸時代初期の池泉観賞式庭園が現存します。以前当ブログで紹介していますが、再訪したので全面的に記事を更新します(2022年7月撮影)。

圓満院庭園・中心部景観



庭園は宸殿(重要文化財)の南側に、山畔を利用して細長く築かれています。宸殿からの観賞を本位として作庭されており、池泉中央付近に亀島を、東部に鶴島を配置し、山畔には滝石組を意匠しています。

圓満院・宸殿と庭園




池泉東部にある鶴島。立石を中心とした力強い護岸石組は、この庭の最大の見どころです。

圓満院庭園・鶴島



鶴亀からは山畔に向けて石橋が架けられています。厚みのある切石橋で、立石による橋添石とともに江戸初期らしい手法となっています。

圓満院庭園・石橋




鶴島・石橋と、周辺の景観。

圓満院庭園・鶴島と石橋




池泉中央付近にある亀島。亀島としての意匠は失われていますが、護岸石組は比較的保存されています。

圓満院庭園・亀島




亀島対岸の山畔には、護岸付近に蓬莱石が意匠されています。山形の巨石を用いた立派な手法です。

圓満院庭園・蓬莱石




山畔側の護岸石組。巨石を用いた豪壮なものになっています。

圓満院庭園・護岸石組



庭園南西部には、山畔上部から枯流れが意匠されています。上部には枯滝石組があり、本堂から観賞することができます。

圓満院庭園・枯滝石組




宸殿の奥にある本堂。

圓満院庭園・本堂と池泉



本堂からは、先ほどの枯流れ上部にある枯滝石組を間近で見ることができます。立石主体の見事な石組ですが、落ち葉に埋もれて全容が掴みづらくなってしまっている点が惜しまれます。

圓満院庭園・枯滝石組



庭園に臨む宸殿内部。宸殿は慶長年間(1596~1615)、明正天皇の御所として建造されたもので、正保4年(1647)に圓満院へ移築されました。美しい小組格天井の見られる上段の間や、江戸初期の狩野派の手によると見られる襖絵など、一見の価値があります。

圓満院・宸殿



圓満院は寛和3年(987)、村上天皇の第三皇子・悟円親王により開基された平等院を起源とします。藤原頼通によって宇治に阿弥陀堂(鳳凰堂)が造営されると、平等院の名をそちらに譲り、圓満院へ改称。以後、門跡寺院として繁栄しました。

圓満院・宸殿



庭園は相阿弥によって室町時代に作庭されたと伝わりますが、宸殿の移築年代や山畔を利用した細長い地割などから、専門家の間では正保~慶安年間(1644~1652)頃の作庭と推定されています。宸殿に面した池泉部分はよく管理されていますが、山畔の枯滝石組が荒廃している点は惜しむべきことで、適切な管理が望まれます。

圓満院庭園・中心部景観

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本年もよろしくお願いいたします。

旧秀隣寺庭園


当ブログをご覧の皆様


いつもご覧いただき、ありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


昨年は諸々の制限が緩和され、(まだまだ不安の多い状況ではありますが)世の中がかなりの部分でコロナ以前の状況に戻った年だったように思います。


個人的には体調が優れなかったり、旅先でカメラが壊れたり、その他なかなか散々な一年でしたが、久しぶりに色々な所へ出かけられる状況になったのは良かったかと思います。東北や畿内の建築・庭園にも行けましたし、(当ブログとは直接関係ありませんが)夏に京都で開催されたブライアン・イーノのインスタレーション展『AMBIENT KYOTO』に行けたのは本当に良かった…

当ブログについては更新が停滞気味になってしまっていますが、昨年訪れた青森や大阪の建築・庭園を、これから少しずつUPしていきたいと思います。


それから今年こそ、去年行けなかった山陰遠征に出かけたい…


というわけで、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。



※写真は昨年、久々に再訪した旧秀隣寺庭園(滋賀県高島市)です。
 
 
 
 

仙洞御所 ~京都府京都市~

仙洞御所は、江戸時代初期の寛永7年(1630)、後水尾上皇のために、小堀遠州を作事奉行として造営された御所です。往時の御所建築は失われていますが、北池・南池の2つの池泉を中心とする廻遊式庭園が現存し、宮内庁管理の下、事前予約制で見学することができます。

仙洞御所・南池



庭園北部を占める北池。もともとは仙洞御所の北側にあった女院御所の庭園でしたが、のちの改修でに仙洞御所の庭園(現在の南池)と繋げられました。園路に沿って、北池の周辺から廻遊していきます。

仙洞御所・北池


北池に沿って園路を歩いて行くと、左手に小さな池泉が見えてきます。御所造営以前、当地に存在した豊臣秀頼の「京都新城」の庭園の名残とされ、付近に邸宅を構えていた平安時代の歌人・紀貫之の幼名「阿古久曾」に因んで、「阿古瀬淵(あこせがふち)」と呼ばれています。

仙洞御所・阿古瀬淵



阿古瀬淵を過ぎると、北東部から北池へと小さな流れが注いでいます。注ぎ口は小さな滝石組となっています。

仙洞御所・北池の小滝



北池では所々に護岸石組が見られますが、小堀遠州の手法は残されていないようです。

仙洞御所・北池の護岸石組



北池東部にある中島。巨石を用いた石組が見られますが、力強さが感じられず、造営当初のものではないようです。

仙洞御所・北池の護岸石組




美しい曲線を描く、南池南東部。一角には「雌滝」と呼ばれる小さな滝もあります。

仙洞御所・北池




雌滝を過ぎたところにある木橋「束(つか)橋」。橋を渡って「鷺の森」を通ると、「紅葉橋」へと出ます。

仙洞御所・束橋




北池と南池を区切る「紅葉橋」。周囲は木々が生い茂り、深山幽谷を思わせる雰囲気となっています。

仙洞御所・紅葉橋




紅葉橋を渡った右手には、紅葉山と呼ばれる築山があります。

仙洞御所・蘇鉄山




紅葉山には、巨石を用いた石組が点在しています。

仙洞御所・蘇鉄山




紅葉山付近から見た南池。中央に中島があり、右手からは、中島に渡る八ッ橋(石橋)が見えています。

仙洞御所・南池



八ッ橋から北東部を望むと、「雄滝」と呼ばれる滝石組が見えてきます。こちらも作庭当初のものではないようですが、巨石を用いた力強い石組になっています。

仙洞御所・雄滝




雄滝の右方には、美しい曲線を描く出島があり、奥には「土佐橋」と呼ばれる切石橋が見えます。

仙洞御所・南池の出島




土佐橋の右手には、巨石を集団風に組んだ護岸石組が見られます。

仙洞御所・南池の護岸石組




南池の南部にある中島「葭島(よしじま)」と岩島。

仙洞御所・南池



南池南西部分の池汀は、玉石を敷き詰めた浜の意匠となっています。文化14年(1817)、光格天皇譲位の際に作られた新しいものですが、今では仙洞御所を代表する景観となっています。

仙洞御所・南池




南池の南方にある茶亭・醒花亭(せいかてい)。文化5年(1808)の再建です。

仙洞御所・醒花亭



女院御所跡地に建つ、大宮御所の御常御殿。仙洞御所の建築は嘉永7年(1854)の大火で失われ、現在は幕末期の大宮御所の建築がわずかに残るのみです。

仙洞御所・大宮御所



仙洞御所は、もともとは豊臣秀吉が嫡子・秀頼のために築いた「京都新城」を前身とします。後水尾天皇の退位に際し、京都新城は破却され、その跡地に御所が造営されました。数度の改修により、庭園は小堀遠州の手法をほとんど残していないようですが、2つの池泉を中心とする景観に、御所の庭としての洗練された美を感じることができます。

仙洞御所・南池の護岸石組

 
 
 
 

誉田屋源兵衛~京都府京都市~

京都市中京区室町にある誉田屋源兵衛(こんだやげんべい)は、江戸時代中期から続く、帯の製造・販売の老舗です。大正8年(1919)に建てられた店舗棟、玄関棟、住居棟、土蔵などが現存し、毎年、「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真展」の開催期間、展示会場として一般公開されます(2022年5月撮影)。

誉田屋源兵衛・店舗棟外観



室町通りに東面する店舗棟。多くの京町家に見られる「うなぎの寝床」式の間取りとは異なり、誉田屋は間口が広く取られ、いかにも大店(おおだな)という感じの風格を備えています。

誉田屋源兵衛・店舗棟外観




表戸口を入ると、市松の見事な格天井。ここから奥の土蔵まで、通り土間が続きます。

誉田屋源兵衛・土間




建物を東西に貫く通り土間。一画には竈(かまど)が設けられ、明り取りの窓にはステンドグラスも見られます。

誉田屋源兵衛・土間




土間に面して、玄関が設けられています。

誉田屋源兵衛・玄関




玄関棟内部。ここから中庭に面した廊下を通り、奥の住居棟へと向かいます。

誉田屋源兵衛・取次




住居棟へ続く廊下から見た、茶室と中庭(露地)。

誉田屋源兵衛・露地



15畳の主座敷と10畳の仏間で構成される、住居棟1階の奥座敷。今回の写真展では1つ目の会場として使用され、スペインの写真家イサベル・ムニョスによる作品が展示されていました。

誉田屋源兵衛・奥座敷




15畳の主座敷。付書院を備え、床柱には北山杉?と思われる美しい丸太が使用されています。

誉田屋源兵衛・奥座敷




奥座敷の西側には、茶庭風の庭園があります。京町家における典型的な空間構成です。

誉田屋源兵衛・庭園




庭園から見た住居棟。今回の公開では、2階部分は非公開でした。

誉田屋源兵衛・住居棟外観




敷地の奥に建つ黒蔵。写真奥の円形の塔屋部分は、後年に増築された箇所です。

誉田屋源兵衛・土蔵



黒蔵の塔屋内部。黒蔵は今回の写真展における2つ目の会場で、イサベル・ムニョスによる、舞踏家・田中泯さんとのコラボによる作品や、イザベルの写真をもとに誉田屋当主・山口源兵衛さんが制作した帯などが展示されていました。

誉田屋源兵衛・土蔵



誉田屋源兵衛は元文3年(1738)、京都・西陣で創業した「南矢代誉田屋」を起源とします。明治元年(1868)、誉田屋源兵衛に改称、同38年(1905)に現在地へ移転しました。

誉田屋源兵衛・外観



当代の山口源兵衛さんは10代目。商品としてのみならず美術作品としての帯の制作や、隈研吾やコシノヒロコ、ユナイテッドアローズとのコラボレーションなど、伝統の枠にとらわれず幅広く活動されています。

誉田屋源兵衛・外観

 
 
 
 

勧修寺庭園 ~京都府京都市~

京都市山科区にある勧修寺(かじゅうじ)は、「山階門跡」とも呼ばれる、平安時代開創の門跡寺院です。境内には「氷室池」と呼ばれる大規模な池泉を中心に、平安時代の池泉廻遊兼舟遊式庭園(遺構)が残されています(2022年5月撮影)。

勧修寺庭園・全景



勧修寺建立以前、この地には宮道弥益という貴族の邸宅が存在しましたが、庭園はその頃の作庭と推定されています。全体的に荒廃が激しいですが、曲線の多い池泉の地割、多島式庭園としての面影を残す3つの中島など、平安時代の庭園様式を今に伝えています。

勧修寺庭園・全景




3つの中島のうち、最も手前側(北側)に位置する「松島」。作庭当初の石組などは失われています。

勧修寺庭園・中島




池泉南部に位置する「方壺島」。3つのうち最も大きい中島ですが、鬱蒼とした樹木により、全容が掴めません。

勧修寺庭園・中島




池泉北東部にある「集仙島」。こちらも樹木の繁茂してしまっています。

勧修寺庭園・中島




池泉の護岸は後世に改造されており、石組も古いものは残されていません。

勧修寺庭園・護岸石組




池泉西部には、「白花渚」と呼ばれる出島があります。こうした出島により曲線の多い池汀となっている点は、平安時代の庭園の特徴と言えます。

勧修寺庭園・出島




池泉北西部の築山にある枯滝「翠微滝」。近代に入ってからの著しい改造により、往時の面影は残されていません。

勧修寺庭園・枯滝石組




池泉北西部に建つ観音堂「大斐閣(だいひかく)」。昭和6年(1931)の建立です。

勧修寺庭園・観音堂



池泉の北方には、重要文化財に指定されている書院があります。貞享3年(1686)に後西天皇の旧殿を下賜されたものと伝わり、内部には土佐光起による近江八景の襖絵などが残されています(通常非公開)。

勧修寺・書院



書院前庭には、江戸中期頃の作庭とされる枯山水庭園があります。低い生垣で囲まれた区画に巨大なハイビャクシンが植えられ、その周囲に石組が配置されています。

勧修寺庭園・書院前庭




書院前庭の三尊石組。

勧修寺庭園・三尊石組




書院前庭にある「勧修寺灯籠」。江戸末期~明治頃のものと推定されています。

勧修寺庭園・勧修寺灯籠




書院の隣に建つ宸殿。元禄10年(1697)、明正天皇の旧殿を下賜されたものと伝わります。

勧修寺・宸殿



勧修寺は昌泰3年(900)、醍醐天皇により建立されました。文明2年(1470)の兵火により荒廃しますが、江戸時代に入り再興されています。庭園は酷く荒廃しているものの、地割はよく残されており、平安期の日本庭園の特徴を知る上で貴重な遺構と言えます。

勧修寺庭園・杜若

 
 
 
 
プロフィール

Hakka

Author:Hakka
関東近郊を中心に、古い町並みや建築(近代建築中心です)、日本庭園を訪ねています。どうぞよろしくお願いします。
※建築は基本的に内部公開されているものを取り上げています。
※画像の無断転載はお断りします。

 
 
 
 
 
 
 
 
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