楊谷寺庭園(浄土苑) ~京都府長岡京市~
京都府長岡京市にある楊谷寺(ようこくじ)は、光明寺、善峯寺とともに「西山三山」に数えられる古刹です。書院裏手に、江戸中期の作庭と推定される池泉観賞式庭園「浄土苑」が残されています(2020年11月22日撮影)。
庭園は、山畔を利用した蓬莱庭園となっています。書院からの観賞を本位としていますが、現存書院は大正期に再建されたもので、池泉との位置関係が不自然になってしまっています。
書院から見た正面の山畔。ドウダンツツジやサツキ類の小刈込のほか、多くの石組が見られます。
山畔上部の立石。山畔には多くの立石があり、大日如来、薬師如来、普賢菩薩など十三仏を表現していると言われます。
山畔左手にある枯滝石組。上部に切石橋を渡した「玉澗流」の枯滝で、下部は大きめの栗石を敷き詰めて枯流れとしています。
西方から見た山畔の石組。斜面を埋め尽くすように石組が配置されています。
池泉中央付近には、中島が一島配置されています。亀頭石や亀尾石らしき石組と同時に、鶴首石や鶴羽石風の石組も見られ、鶴島と亀島を兼ねているように見えます。
池泉南方から望む中島。書院側から切石橋、山畔側から自然石の石橋と、2つの石橋が渡されています。
書院北部にある出島の先端にも、亀頭風の石組が見られます。
庭園南部は、大正期の上書院(写真左上)造営時に改造されているようで、枯滝風の石組や沢渡、雪見灯篭などはすべてその頃の後補と思われます。
上書院脇にある、遠山石風の立石。こちらは鋭く古風な手法です。
楊谷寺庭園は大同元年(806)、清水寺の開祖・延鎮僧都により開創されました。「柳谷観音」として知られ、眼病に効くとされる湧水「独鈷水」は、江戸時代に歴代天皇へ献上されたと言われます。
庭園は元禄6年(1693)、量空是海により寺が再興された際の作庭と推定されています。山畔に江戸中期的な小刈込が多く見られる一方、石組は立石本位の力強いもので、造形的主張の弱まっていく傾向にある当代の日本庭園にあって、十分観賞に耐えうる庭となっています。
庭園は、山畔を利用した蓬莱庭園となっています。書院からの観賞を本位としていますが、現存書院は大正期に再建されたもので、池泉との位置関係が不自然になってしまっています。
書院から見た正面の山畔。ドウダンツツジやサツキ類の小刈込のほか、多くの石組が見られます。
山畔上部の立石。山畔には多くの立石があり、大日如来、薬師如来、普賢菩薩など十三仏を表現していると言われます。
山畔左手にある枯滝石組。上部に切石橋を渡した「玉澗流」の枯滝で、下部は大きめの栗石を敷き詰めて枯流れとしています。
西方から見た山畔の石組。斜面を埋め尽くすように石組が配置されています。
池泉中央付近には、中島が一島配置されています。亀頭石や亀尾石らしき石組と同時に、鶴首石や鶴羽石風の石組も見られ、鶴島と亀島を兼ねているように見えます。
池泉南方から望む中島。書院側から切石橋、山畔側から自然石の石橋と、2つの石橋が渡されています。
書院北部にある出島の先端にも、亀頭風の石組が見られます。
庭園南部は、大正期の上書院(写真左上)造営時に改造されているようで、枯滝風の石組や沢渡、雪見灯篭などはすべてその頃の後補と思われます。
上書院脇にある、遠山石風の立石。こちらは鋭く古風な手法です。
楊谷寺庭園は大同元年(806)、清水寺の開祖・延鎮僧都により開創されました。「柳谷観音」として知られ、眼病に効くとされる湧水「独鈷水」は、江戸時代に歴代天皇へ献上されたと言われます。
庭園は元禄6年(1693)、量空是海により寺が再興された際の作庭と推定されています。山畔に江戸中期的な小刈込が多く見られる一方、石組は立石本位の力強いもので、造形的主張の弱まっていく傾向にある当代の日本庭園にあって、十分観賞に耐えうる庭となっています。
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