茶の湯的 ・ 建築 庭園 町並み観賞録

 
 
 
 

一乗谷朝倉氏遺跡 〜福井県福井市〜

GW3日目、4年振りに、福井市郊外の一乗谷へ。一乗谷は戦国大名・朝倉氏の本拠地で、一乗川沿いの谷間と周囲の山々が一つの城砦でした。国の特別史跡に指定され、戦国時代の山城、居館、城下町址の一帯が「一乗谷朝倉氏遺跡」として整備されています。

一乗谷への北の入口となる、下城戸の土塁と水堀。

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下木戸の石垣。枡形虎口になっています。

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城下町平面復原地区。昭和四十二年(1967)からの発掘調査で発見された屋敷跡や井戸、側溝がそのまま復元されています。

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町並復原地区。戦国時代の城下町と武家屋敷を忠実に再現しています。

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町並復原地区の武家屋敷跡。庭園があったようで、石組が残されています。

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一乗谷を南北に流れる一乗川。

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館址の北にある瓜割清水。生活用水に使われていたと考えられ、現在も水が湧いています。

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館址の土塁と水堀。

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館址に建つ唐門。江戸時代に建てられたものですが、すっかり一乗谷のシンボルとなっています。

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館址。朝倉家代々の当主の居館だった場所で、礎石や庭園が残されています。

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館跡の庭園。朝倉氏の文化水準の高さを物語る遺構です。

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湯殿庭園。一乗谷には、国の特別名勝に指定されている庭園が全部で4カ所残ります。次回記事で詳しく触れたいと思います。

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上城戸の土塁と堀。一乗谷の南端となります。

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朝倉氏が一乗谷を本拠としたのは7代孝景(敏景)の頃といい、以後朝倉氏5代に渡って栄えました。庭園などに見られる文化水準の高さや、全盛期には人口1万人を超えるなど、「北の京」と呼ばれましたが、天正元年(1573)織田信長の軍勢に攻められ、当主義景は自害。朝倉氏の滅亡とともに、一乗谷も灰燼に帰しました。

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次回は一乗谷の庭園群を取り上げます。



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山陰・山陽探訪 ⑲岡山城~ 岡山県岡山市~

山陰・山陽探訪、最後は旭川にたたずむ岡山城を訪れます。

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後楽園側(搦手)から見上げる天守。織田信長の安土城天主を模しているといい、天守台の平面は安土城と同じく五角形をしています。

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廊下門。昭和41年(1966)、鉄筋コンクリート造で復元されたものです。

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本丸表書院(中の段)に現存する月見櫓。元和~寛永年間(1615~1644)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。

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昭和41年(1966)に復元された不明門。本丸表書院(中の段)から本丸本段への入り口です。

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本丸本段に建つ天守。慶長2年(1597)、宇喜多秀家により建てられましたが昭和20年(1945)に戦災で焼失しました。現在の天守は昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造により復元されたものです。

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下見板張りの黒い外観から、別名「烏城(うじょう)」とも呼ばれています。5層6階の望楼型天守で、鯱や鬼瓦には金箔が塗られ、桃山時代を象徴する外観になっています。

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表書院の地下から発掘された、宇喜多氏時代の石垣。

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大納戸櫓台の石垣。小早川秀秋により築かれたと考えられています。

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大手門跡の石垣。桝形虎口になっています。

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岡山城は、もともとはその名を石山城といい、浦上宗景の家臣・宇喜多直家の居城でした。直家の後を継いだ子・秀家は石山城を近世城郭として大改修し、岡山城が誕生します。関ヶ原合戦後に秀家が改易されると、その後は小早川秀秋、池田忠雄が入城しました。その後は鳥取城から池田光政が入城し、以後、明治まで池田氏の居城として存続しました。

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山陰・山陽探訪 ⑧大内氏館址 ~山口県山口市~

山陰・山陽探訪3日目。この旅のテーマの一つとして、山口を本拠とし、山口を「西の京都」と呼ばれるまで繁栄させた大内氏に関連する史跡や庭園を訪れたい、というのがありました。今回はその大内氏の本拠だった、山口の居館址を訪れました。

現在、大内氏代々の居館址は龍福寺の境内となっています。

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龍福寺本堂(国重要文化財)はもともと大内氏の氏寺であった興隆寺から移築されたもので、室町時代の建築様式を今に伝えています。

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館址西側には、発掘調査をもとに木戸が復元されています。付近には、同じく発掘調査で見つかった石組の水路が展示されています。

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館址北側に復元された土塁と虎口。堀痕には砂利が敷かれています。現地案内板には、龍福寺山門脇の竹藪にも土塁が残ると書かれていますが、現在では確認できません。

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館の南東部には発掘調査により、池泉式庭園があったことが確認され、復元されています。大内氏は文化・芸術を奨励した大名というイメージが強いのですが、それにしてはずいぶんと簡素な庭、という印象を受けます。一応、発掘に基づいて忠実に再現されている筈ではあるのですが…

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龍福寺境内にある、「豊後岩」。庭園に使用するため豊後国から運ばれましたが、雨の夜は豊後に帰りたがって泣いていたという伝承があります。

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館の北東部には、やはり発掘調査をもとに枯山水庭園が復元されています。

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恐らく御殿の裏庭のような小さな庭だったのでしょうが、石組の力強さは、素晴らしいものがあります。大内氏最後の当主、17代・義長の頃に改変されているようです。

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館址の北側、八坂神社境内には、当時「築山館」と呼ばれるもう一つの館がありました。

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築山館は、大内氏第16代・義隆が、居館に増設する形で築いたものと考えられています。今でも北西隅に、高さ3m近い大きな土塁を残しています。

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八坂神社西側の「竪小路」は、中世から明治まで山口のメインストリートとして栄えました。
今でも辛うじて面影が残ります。

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大内氏館の北西にある瑠璃光寺には、嘉吉2年(1442)に建てられた五重塔が現存します。もともとは大内氏により開かれた香積寺の塔で、大内文化の最高傑作とされ国宝に指定されています。余計な装飾を廃したシンプルかつ計算されつくしたデザインは、時代を超えた普遍的な美を感じさせます。

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大内氏は周防国の多々良氏を祖とし、戦国時代、第16代・義隆の頃には西国最大の大名となります。14代・政弘から16代・義隆の頃にかけて、山口を中心に「大内文化」と呼ばれる独特の文化が形成され、特に文化・芸術に熱心だった16代・義隆は、宣教師や公家を保護、明との貿易を独占化し、山口は「西の京」と呼ばれるほどの繁栄ぶりだったといいます。しかし義隆の代に重臣・陶隆房が謀反、義隆は自害し、これが原因となり大内氏は滅亡しました。


次回は上山口へ移動し、善生寺の庭園を訪れます。

 
 
 
 

四国探訪⑪~玉藻公園=高松城址(香川県高松市)~

高松港に臨む玉藻公園は、かつての高松城址です。現在は埋め立てにより海岸線は後退してしまいましたが、往時は「玉藻の浦」と呼ばれた海岸線に築かれた「海城」で、今治城・中津城とともに「日本三大水城」に選定されています。 現在は主要部分が公園として整備され、着見櫓・水手御門・艮櫓及び披雲閣が重要文化財に指定されています。

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現存する着見櫓(延宝4年(1767)築)と水手御門(江戸末期築)

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水手御門と渡櫓

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三の丸に建つ披雲閣(大正6年(1917)築)

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現在の披雲閣は、三の丸御殿「披雲閣」を模して建てられた近代和風建築です。

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海水を取り入れている本丸の水堀

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堀のエメラルドグリーンの美しさは、息を飲むほどです。

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本丸の堀にかかる「鞘橋」(再建)

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南蛮造りの天守が聳えていた天守台

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桜の馬場に移築された旧北の丸艮櫓(延宝5年(1677)築)

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高松城は別名「玉藻城」とも呼ばれ、天正15年(1587)に生駒親正によって築城されました。寛永17年(1640)、生駒氏がお家騒動で出羽屋島へ転封となると、徳川光圀の兄・松平頼重が入城し、城を大改修、南蛮造りの天守を建造しました。玉藻の浦に臨むその美しさは、「わだつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城龍宮のごと」(与謝野晶子)と評されました。

 
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四国探訪⑧~大洲城(愛媛県大洲市)~

肱川に臨む地蔵ヶ岳と呼ばれる小丘が、大洲城址です。肱川沿いに複合連結式天守が佇む風景は、「美しい日本の歴史的風土準100選」に選定されています。

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天守(復元)と高欄櫓(現存)。 天守は老朽化と構造上の問題から、明治21年(1888)に解体されましたが、平成16年(2004)に古写真等をもとに復元されています。

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高欄櫓(文久元年(1861)築)。高欄を巡らせ、二層目屋根には唐破風を設けた、装飾的な建物です。

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本丸から見る天守群。左から高欄櫓、天守、台所櫓(現存)

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天守は四層四階の層塔型天守で、下見板張り、多くの破風や二層目だけ火燈窓が設けられるなど、珍しい構造をしています。

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本丸南面の石垣。打ち込みハギの石垣ですが、上部は後世に積み直されているようです。

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現存する三の丸隅櫓(明和3年(1766)築)

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肱川沿いに現存する苧綿櫓(天保14年(1843)築)

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大洲城はもともと地蔵ヶ岳城と呼ばれ、鎌倉時代末期に宇都宮豊房によって築城されました。近世城郭として改修されたのは、文禄4年(1595)に入城した藤堂高虎および慶長14年(1609)に入城した脇坂安治の時代で、天守もこの頃建てられたと推定されています。その後、元和3年(1617)には加藤貞㤗が入城し、以降、明治まで加藤氏が藩主を務めています。

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プロフィール

Hakka

Author:Hakka
関東近郊を中心に、古い町並みや建築(近代建築中心です)、日本庭園を訪ねています。どうぞよろしくお願いします。
※建築は基本的に内部公開されているものを取り上げています。
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